ぐらぐらの机と藤森さんの建築

水戸芸術館で行なっていた建築家、歴史家の藤森照信さんの展示を見た。

そのあと一時間程度路上観察をしながらいつも通り家の写真などを撮った。

水戸という特殊な土地のせいか、よいものを見たからか、ふだんよりシャッターをきる回数が多かったような気がする。


話は少しそれるが、最近は部屋に机が欲しくて、探し回ったりしていた。

しかしなかなかよいものはなく、というかよいものは高くて手が出せないので、自分で作ることにした。

自分で作るといっても一からというわけではなく、廃材を利用してとりあえず机らしいものになればいいという程度だ。

材を探し集め、工法を調べ、なんとかできそうだったものの、ぐらぐらで到底使いものにならなそうなものができた。

こんな簡単な構造物もつくれないんだから家をつくるなんてものすごいことだなぁ…とあらためて建築技術というものの偉大さを思い知っていた。


話を戻すと、藤森さんの建築は自然をいかに建築に取り入れるかという問題を通り越して、建築は自然物であると言わんばかりだった。

大きな木から苔のような小さいものまで、とにかくたくさんの植物が登場するのだが、それによって印象づけられたのは、建築は地面の上に、土の上にたっているということだ。

最近の住宅やビルは軽々しく地面の上にポンと置かれているような感じがする。

そのせいかはわからないが、基礎の部分、土の中のことを忘れがちだ。

建築といわれるもののほとんどは土の上に成りたっているのだ。

私のつくった机も土に挿してしまえば安定するのにと思ったが家具の場合そうはいかない。

家具というものは構造物を土からどう切り離すかをつきつめた技術であるともいえそうだ。


なにかと携帯性や移動性がもてはやされる中、藤森さんの木や山そのもののような建築は、本来の自然の摂理というか、原則を思い出させてくれた。




普通ということへの絶望

熊谷晋一郎さんの「リハビリの夜」のやっと読み終えた。

この本には医師であり、脳性まひという障害をもった熊谷さんの実体験と考察がわかりやすく、しかし生々しく記されている。

やっと読み終えたというのも、この本を途中まで読み進めていた途中で私自身に抑うつ症状がでてしまって、医療や障害に関わるものをできるだけ遠ざけていたという経緯がある。

いまこの本を読み終えて当時のことを振り返ると、学校というところからでるかもしれないという可能性が高いにも関わらず、社会とのつながりがうすいことに焦りを感じていたことがいちばん負担をかけていたのだと思う。

社会にでてしまったら「普通の人」であることが求められると怯えていた。

もがけばもがくほどその「普通の人」という存在しない観念がからみついた。

思い描くハードルの高さに到底届かないことに絶望し、硬直してしまった。

しかしわたしは治療する過程でどうすればこの硬直がほどかれるのか試行錯誤を繰り返した。

労働をしたり、恋をしたり、友人も増えていったが、思い描く社会とのつながりは得られないままだった。

だんだんと到底届かないと絶望していた「普通の人」にはなりたくないという忘れていた気持ちがよみがえってきた。

むしろそこへどうしてもいくことができない不自由さや敗北に美徳をもって、いまここにいる。

これからもおそらく社会の規範とはズレた生きかたをしていくのだと思う。

型にはまることの安堵感は得られない代わりに型から逸脱する、断念するといった官能を味わうことができる。

決して普通でない社会との関わりかたにも、自信をもってのぞめるように、わたし自身が見つけたよろこびや自由をしっかりとつかまえていなくてはいけない。

熊谷さんが教えてくれたのは、決して健常であることが正しいことでも、健康的なことでもないということ。

いまはだいぶ症状も落ち着いてきたが、また自分を見失わないようにもうすこし自信をもって、わたしの自由な生きかたをかたちづくっていきたい。

毎日のしるし

朝起きて今日という日になってから今日が今日であるということを見つけるまでに毎日時間がかかる。

見つけるまではどこかに取り残されたような気持ちで不安でいっぱいになる。

はやく今日を始めなければ。

そんな焦りが寝ぼけた頭を支配する。

最近、育てている小さい木に2センチぐらいの青虫がついているのを見つけた。

しばらくじっと見つめていても動かない。

でも次の日になると違う枝に違う姿勢で張り付いていて、ちゃんと動いていることがわかる。

わたしは朝起きてすぐこの青虫を探すようになった。

青虫が昨日と違うところに張り付いているのを見つけるととても安心する。

同じ部屋、同じところで暮らしていると時間がこんがらがっていく。

ひとつの空間に溜まってよどんでいく。

小さいことでも昨日から今日へ、今日から明日へ時間を整えることが代わり映えのない日常に対する焦りにすこし安心をもたらしてくれるかもしれない。

やすむこと

わたしはほんとうにやすむこととはどういうことだろうと考えてきた。

朝起きて、夜眠る。

このサイクルの中のやすみはいったいどこにあるんだろう。

やすみといえば睡眠が思い浮かぶ人も多いだろう。

しかしわたしはまったくそう思えなかった。

睡眠は無意識下の出来事でコントロールができない。

いくら寝てもからだがやすまらないときもある。

やすむことは起きているときにできることだ。

からだをはっきりとした意識のもとにはたらかせることだ。

逆にやすめないこととはどういうことだろう。

それはなにものかに縛られてからだがこわばっていること状態だ。

なんどこの状態を終わらせようとしても自分の力ではどうにもならない。

からだだけやすめても縛られたものとのズレがおおきくなって負担がかかり、かえってやすむことからは遠ざかる。

 

なにかを整えているときわたしはやすむことができるのかもしれない。

しかもいま必要な整理をしているとき。

では必要な整理とはどのようなときにおこるのか。

たとえばなにかをおしまいにするときには整理することが必要となる。

お店をたたむとき、人と別れるとき、話を切り上げるとき。

いらないものを捨てたり、人にあげたり、ばらばらなものをひとつにまとめたり。

この運動をしていると、いまのわたしというものが浮きあがってくる。

これはいる、いらないというようなひとつひとつのものへの態度を選択することがそうさせてくれる。

そして最後はわたしのからだがぽつんと環境から切り離される。

しかし全てが簡単に断ち切れたり、切り上げられることだけではない。

そういうときにそれらをすこし誰かに預けたり、棚上げにすることができる。

わたしひとりが世界のなにともつながりを持たずたっていることはたぶん不可能だろう。

そういうときにすこしだけわたしではないだれかにわたしをすこし預けておくということができるようになれば、長い1日を終わらせてあげることができるかもしれない。

手間のはなし

アートにしろ建築にしろ、飽和した物質世界の中でどういう態度をとるかという問題意識を感じる。

まっさらな土地に新しいものを組み立てていくことは今ではほとんどないように思う。

既存の、古くなったもの、いらなくなったものにたいして入りこんで新しい価値を与える。

または歴史の再発見をする。

そうしたことが各地で頻発している。

そこでは、先にあるものへの態度というものが求められる。

干渉する、そのままにしておく、やり方はたくさんあるだろう。

なんらかの手間をかけなくてはその空間にいることが許されない。

その手間のかけ方が、よくない方法で行われている場合が多いような気がしている。

それはせっかくの豊かな土のある土手をコンクリートでびっしり舗装してしまうような手間のかけ方だ。

たしかにそこへは侵入することができるし、たいへんな手間ではあるから、満足したような気持ちになるだろう。

しかしこれでは、その先になにも育たない。

また荒れることすらない、循環の起こらない土地を増やしているだけにすぎない。

手間をかけたその先に手間のかからないことなどあるはずがない。

いま求められているのは、ゆっくりとそこに侵入していくようなことだ。

土地を知り、耕し、種をまくような。

そしてそこに手を入れ続けること。

時間を共に過ごしているという意識。

そんな手間のかけ方が理想的だ。


古いものを呼び起こすような、掘り起こすような最近の動向は、私には永遠に封印しているようにみえる。

自分勝手な介錯を塗り込めてしまったところにはもうなにも芽吹かないことだろう。



はだかのいえ

住宅街を歩きながら、よその家の写真をとりつづけていて最近ようやく気づいたことがある。

主に三角屋根の平屋が好きでよく目がいくが、家の周りには必ず塀や生垣や門がある。

今まで特に気にならなかったのはそういった家の周辺の構造物も好きだったからだ。

しかし最近になって、なんの障害のない家のかたちが見たいと思うようになった。

からだだけのはだかのいえ。

わたしの主な活動範囲である都市部ではなかなかそんな家は見つからない。

この間植物園にいったときに多くの聞きなれない鳥の声を聞いた。

姿は見えないが鳴き声や羽音は騒がしいほど聞こえた。

鳥の多くは木に巣をつくる。

木の上のように高いところは外敵も少なく、幹を覆う葉は風や雨から鳥を守るからだ。

木は鳥にとっての家だということを、姿を見せない鳥が思い出させてくれた。

話を戻すと、毎日のように見たいと思っていたはだかのいえをわたしは毎日のように見て、家と同じかそれ以上の頻度でカメラに収めていたということに気づいた。

その気づきからわたしのなかで木と家はよりいっそう近しい存在になりはじめた。

しかし、家を見るように木を見て、木を見るように家を見ると、家が土地のなかに建ち、庭や塀を持っていることが前よりも気になりだした。

内的空間をつくるための壁や屋根をなぜもう一層かくさなくてはならないのだろう。

倒木

白山にある小石川植物園にいった。

ここの正式名称は東京大学大学院理学系研究科附属植物園という。

東京大学の実習施設でありながら、普段は植物園として一般に開放されている。

いくつかのエリアに分かれて様々な植生が観察できるところは普通の植物園と変わらないのだが、ここの印象は植物園というよりは庭、あるいは森だった。

植物たちが窮屈なところに押し込められている印象は全くなく、むしろ管理されることで生き生きとしているように見えた。

決められたルートも特になく、道とされているところも奥に進めば進むほど枯葉や土に覆われて境界があいまいになる。

ところどころに立っている看板に落ちてくる枝への注意をうながされる。

これはもう管理できないほどの大木があることを示しているんだろう。

実際地面には大きな枝がたくさん落ちているし、ときどき、どこかで枝の折れる音がする。

奥に進んでいくと少し開けた場所にでた。

そこにひとつの倒木があった、

太くて立派な木なのだけど、2〜3mぐらいのところで裂けてしまったようだ。

木は生きているのか死んでしまったのかわたしには判別できなかったが、残った方も、倒れてしまった方もそのままの状態で残してあるようだ。

その倒木を近くでよく見てみると幹にも、周りの地面にもキノコがたくさん生えていた。

雨で湿った幹が、水をたくさん蓄えるようで、周囲の土のやわらかさも他のところよりすこしやわらかい気がする。

どうしてこの木が倒れてしまったかはわからないが、倒木は倒木としてそこに秩序をあたえていてあるようで、その一帯の風景はこの植物園でいちばんおだやかにみえた。