日常があふれるとき

日常、生活と呼ばれるものはとらえどころなくだらだらと流れていってしまう。

そのままにしておくとたまらなく不安な気持ちになるので絵を描いたり、こうして文字に起こしてみる。

それでも本当に生きるということそのものはとらえきれず、感じることも難しい。

ごくたまに、それらすべての感覚が体の中に入り込んでくる瞬間がある。

去年わたしは大学院への進学を機に引越しをしてシェアハウス暮らしになり、軽自動車も手に入れた。

わたしの人生においてこんなに環境が一変した一年はない。

しかしそれをうまく感じることができずに過ごしてきた。

頭ではわかっているのに実感がない。

 

ある夜、二時間ほどの運転を経てへとへとに疲れ、もうすぐ家に着くというときに突然、今まで感じられなかったことすべてが一気になだれ込んできた。

そのときの疲れ、夜の暗闇、真冬の寒気、タバコのにおい、どれが引き金になったかはわからない。

それらすべてのせいなのかもしれない。

わたしの体の中は感情、感覚、今までの時間でいっぱいになり、涙という形であふれだした。

こんな瞬間が本当にごくたまにある。

それはいつもひとりっきりの、心地よい孤独のなかにいるときだ。

 

 

排他的であることを思い出すこと

「分かり合えないことを前提に他者を受け入れる」ことが若者のスローガンのようになっていっているように感じる。

この言葉は世界的なつながりが一般的になりつつもそれでも分かり合えない他者を受け入れるために自然発生し、僕らの生活のレベルまで浸透した。

しかし、この言葉のもたらす最終的な目的はだいぶズレてきている。

まず分かり合えないことを分かったフリをしてしまうことがあげられる。

すぐに理解できるはずもないことを安易に認めてしまったり、面白がったりしてしまっていないだろうか。

そもそも分かり合えないことをそのまま認めてそこで終わりなのだったら最初からコミュニケーションをとる意味がよくわからない。

僕たちはいつでも、分かり合えないけれどそれでも付き合っていって、なんとか見つけ出した互いの共通言語をきっかけにそれぞれが持つ知恵を交換して文化を発展させてきた。

いま現在、前述したスローガンのもとに行われているコミュニケーションは虚しいすれ違いにみえる。

それは世界的にも、僕たちの生活のレベルにも。

時代は変わってもコミュニケーションの本質は共通点の発見で、異物を飲み込むのはその後の話だ。

その後の飲み込む、吐き出すの選択のために、まずは一旦受け入れることが、本来の目的だったように思えてならない。





くるま

知り合いからくるまをもらってから一ヶ月ほどたった。

もらったくるまは僕と同い年の年式であちこち痛んでボロボロの軽トラック。

オンボロでしかもマニュアル車ということもあって試運転を何度も重ねてやっと家の近くまで乗ってくることができた。

しかしその翌朝エンジンがかからなくなり、保険会社に連絡してレッカー車を呼んでもらった。

レッカー車がくるまでの二時間ほど、あほみたいに晴れた空の下ぼーっと過ごした。

昨日あんなに軽快に動いていたのがうそみたいに動かない。

その事実が受け入れられない、というかあまり現実感がなかった。

レッカーされて行く様を僕は他人事のように見ていた。

その様はもうくるまのかたちをしたおもちゃのようだった。

二週間ほどの修理がおわり、つい先日かえってきてからはまた快調にエンジン音をならし、ガタガタゆれながら走っている。

運転しているとたまにあのレッカーされていく無様な姿を思い出す。

横を通りぎていくかっこいいくるまたちも、僕のこっけいなくるまも同じくるまなんだと思うと妙な気分になり笑えてくる。


ゆるやかな曲線

うつ状態に陥ると身体に隙間のようなあそびがなくなって全身がこわばる。

そこには大きなよろこびもかなしみも入る隙がない。

大好きな友達が笑わせてくれても、うまく笑えない。‬

‪そんなときにほんとうにすばらしい美術作品を見るとするっと身体に侵入して、だんだんとよろこびをふくらませてくれる。‬

‪そのよろこびがしぼんでいくときもとてもゆっくりで、気づかないうちにいなくなっているので喪失感も感じない。‬

‪自分からなにもかもなくなってしまったような気分のときは、そういった非常にゆるやかな山なりの曲線のように作用するものだけ摂取できる。‬

‪これはよろこびでなくてもかなしみでも、いかりでもいい。‬

‪とにかく揺れることが必要で、それが続けばいずれどこかに隙間がうまれてくる。‬

‪そうすればまた、笑いたいときに笑って泣きたいときに泣けるような自由な状態に解放される。‬

そしてその‪自由な状態は世界を感受する力を高めてくれる。‬

‪それを保っていられるためにできるだけうまく揺られていたいと思う。‬

サンダルと親指の異常

朝、恋人がゴミを出しに行くとき、わたしのビーチサンダルを履いていった。

帰ってくると、「このサンダル、親指のところ痛くない?」といわれた。

わたしはそれまでてっきりわたしの親指に異常があって、サンダルを履くと痛くなるのだと思い込んでいた。

何年も、ずっと。

しかし他人が履いても痛いということは、サンダル自体に異常があることになる。

サンダルよーく見てみると小さな穴があり、そこを掘り返してみると尖った小さなガラス片が入りこんでいた。

このサンダルを自分だけが履いていたらたぶんずっと自分に異常があると思い込んでいただろう。

他人が履いたというそれだけのことで、自分の親指になにか異常があるという疑念はすっかりはがれおち、ガラス片のとりのぞかれたサンダルを履いて外に出かけることができた。

なくなった木とあたらしい風景

地元の駅のロータリーに植えられていた街路樹。

この木のことを気にかけていたひとがどれくらいいるかわからないが、この木にはムクドリがよくとまり、地面にフンを落としていた。

それでもわたしは信号待ちの横でさわさわと揺れるこの木が好きだった。

しかし突然この木は姿を消してしまった。

植わっていたところにはコンクリートが流されていた。

一方的で暴力的な行為に一瞬怒りすら覚えたが、一本の木がなくなっただけで風景は信じられないほどひらけていた。

木がなくなったさみしさと風景がひらけたさわやかな気持ちがこんがらがって、わたしはしばらくそこにたっていた。

すこしずつゆっくりと動いている

わたしが植物を好いているわけが最近すこしだけわかった。

わたしはわたしが動いていないと感じるとき、とてもこわい気持ちがやってくる。

現実にそんなことはなくても、そんな気がすることがとてもこわいのだ。

植物は、動いていないようにみえる。

しかし長く付き合っていると、すこしずつ成長していることがわかる。

いつのまにか新しい葉をつけ、背も伸びている。

そういう発見をするとき、わたしは深い安心とよろこびにつつまれる。

動いていないようにみえるものも実はすこしずつゆっくりと動いているのだ。

そんな植物たちを観察しているわたしもまた同じ時間を過ごし、すこしずつゆっくりと動いているはずだ。

動いていないことへの心配はほとんど杞憂だ。

目に見えない速度で、しかし確実に動きつづけている。