サンダルと親指の異常

朝、恋人がゴミを出しに行くとき、わたしのビーチサンダルを履いていった。

帰ってくると、「このサンダル、親指のところ痛くない?」といわれた。

わたしはそれまでてっきりわたしの親指に異常があって、サンダルを履くと痛くなるのだと思い込んでいた。

何年も、ずっと。

しかし他人が履いても痛いということは、サンダル自体に異常があることになる。

サンダルよーく見てみると小さな穴があり、そこを掘り返してみると尖った小さなガラス片が入りこんでいた。

このサンダルを自分だけが履いていたらたぶんずっと自分に異常があると思い込んでいただろう。

他人が履いたというそれだけのことで、自分の親指になにか異常があるという疑念はすっかりはがれおち、ガラス片のとりのぞかれたサンダルを履いて外に出かけることができた。

なくなった木とあたらしい風景

地元の駅のロータリーに植えられていた街路樹。

この木のことを気にかけていたひとがどれくらいいるかわからないが、この木にはムクドリがよくとまり、地面にフンを落としていた。

それでもわたしは信号待ちの横でさわさわと揺れるこの木が好きだった。

しかし突然この木は姿を消してしまった。

植わっていたところにはコンクリートが流されていた。

一方的で暴力的な行為に一瞬怒りすら覚えたが、一本の木がなくなっただけで風景は信じられないほどひらけていた。

木がなくなったさみしさと風景がひらけたさわやかな気持ちがこんがらがって、わたしはしばらくそこにたっていた。

すこしずつゆっくりと動いている

わたしが植物を好いているわけが最近すこしだけわかった。

わたしはわたしが動いていないと感じるとき、とてもこわい気持ちがやってくる。

現実にそんなことはなくても、そんな気がすることがとてもこわいのだ。

植物は、動いていないようにみえる。

しかし長く付き合っていると、すこしずつ成長していることがわかる。

いつのまにか新しい葉をつけ、背も伸びている。

そういう発見をするとき、わたしは深い安心とよろこびにつつまれる。

動いていないようにみえるものも実はすこしずつゆっくりと動いているのだ。

そんな植物たちを観察しているわたしもまた同じ時間を過ごし、すこしずつゆっくりと動いているはずだ。

動いていないことへの心配はほとんど杞憂だ。

目に見えない速度で、しかし確実に動きつづけている。


ぐらぐらの机と藤森さんの建築

水戸芸術館で行なっていた建築家、歴史家の藤森照信さんの展示を見た。

そのあと一時間程度路上観察をしながらいつも通り家の写真などを撮った。

水戸という特殊な土地のせいか、よいものを見たからか、ふだんよりシャッターをきる回数が多かったような気がする。


話は少しそれるが、最近は部屋に机が欲しくて、探し回ったりしていた。

しかしなかなかよいものはなく、というかよいものは高くて手が出せないので、自分で作ることにした。

自分で作るといっても一からというわけではなく、廃材を利用してとりあえず机らしいものになればいいという程度だ。

材を探し集め、工法を調べ、なんとかできそうだったものの、ぐらぐらで到底使いものにならなそうなものができた。

こんな簡単な構造物もつくれないんだから家をつくるなんてものすごいことだなぁ…とあらためて建築技術というものの偉大さを思い知っていた。


話を戻すと、藤森さんの建築は自然をいかに建築に取り入れるかという問題を通り越して、建築は自然物であると言わんばかりだった。

大きな木から苔のような小さいものまで、とにかくたくさんの植物が登場するのだが、それによって印象づけられたのは、建築は地面の上に、土の上にたっているということだ。

最近の住宅やビルは軽々しく地面の上にポンと置かれているような感じがする。

そのせいかはわからないが、基礎の部分、土の中のことを忘れがちだ。

建築といわれるもののほとんどは土の上に成りたっているのだ。

私のつくった机も土に挿してしまえば安定するのにと思ったが家具の場合そうはいかない。

家具というものは構造物を土からどう切り離すかをつきつめた技術であるともいえそうだ。


なにかと携帯性や移動性がもてはやされる中、藤森さんの木や山そのもののような建築は、本来の自然の摂理というか、原則を思い出させてくれた。




普通ということへの絶望

熊谷晋一郎さんの「リハビリの夜」のやっと読み終えた。

この本には医師であり、脳性まひという障害をもった熊谷さんの実体験と考察がわかりやすく、しかし生々しく記されている。

やっと読み終えたというのも、この本を途中まで読み進めていた途中で私自身に抑うつ症状がでてしまって、医療や障害に関わるものをできるだけ遠ざけていたという経緯がある。

いまこの本を読み終えて当時のことを振り返ると、学校というところからでるかもしれないという可能性が高いにも関わらず、社会とのつながりがうすいことに焦りを感じていたことがいちばん負担をかけていたのだと思う。

社会にでてしまったら「普通の人」であることが求められると怯えていた。

もがけばもがくほどその「普通の人」という存在しない観念がからみついた。

思い描くハードルの高さに到底届かないことに絶望し、硬直してしまった。

しかしわたしは治療する過程でどうすればこの硬直がほどかれるのか試行錯誤を繰り返した。

労働をしたり、恋をしたり、友人も増えていったが、思い描く社会とのつながりは得られないままだった。

だんだんと到底届かないと絶望していた「普通の人」にはなりたくないという忘れていた気持ちがよみがえってきた。

むしろそこへどうしてもいくことができない不自由さや敗北に美徳をもって、いまここにいる。

これからもおそらく社会の規範とはズレた生きかたをしていくのだと思う。

型にはまることの安堵感は得られない代わりに型から逸脱する、断念するといった官能を味わうことができる。

決して普通でない社会との関わりかたにも、自信をもってのぞめるように、わたし自身が見つけたよろこびや自由をしっかりとつかまえていなくてはいけない。

熊谷さんが教えてくれたのは、決して健常であることが正しいことでも、健康的なことでもないということ。

いまはだいぶ症状も落ち着いてきたが、また自分を見失わないようにもうすこし自信をもって、わたしの自由な生きかたをかたちづくっていきたい。

毎日のしるし

朝起きて今日という日になってから今日が今日であるということを見つけるまでに毎日時間がかかる。

見つけるまではどこかに取り残されたような気持ちで不安でいっぱいになる。

はやく今日を始めなければ。

そんな焦りが寝ぼけた頭を支配する。

最近、育てている小さい木に2センチぐらいの青虫がついているのを見つけた。

しばらくじっと見つめていても動かない。

でも次の日になると違う枝に違う姿勢で張り付いていて、ちゃんと動いていることがわかる。

わたしは朝起きてすぐこの青虫を探すようになった。

青虫が昨日と違うところに張り付いているのを見つけるととても安心する。

同じ部屋、同じところで暮らしていると時間がこんがらがっていく。

ひとつの空間に溜まってよどんでいく。

小さいことでも昨日から今日へ、今日から明日へ時間を整えることが代わり映えのない日常に対する焦りにすこし安心をもたらしてくれるかもしれない。

やすむこと

わたしはほんとうにやすむこととはどういうことだろうと考えてきた。

朝起きて、夜眠る。

このサイクルの中のやすみはいったいどこにあるんだろう。

やすみといえば睡眠が思い浮かぶ人も多いだろう。

しかしわたしはまったくそう思えなかった。

睡眠は無意識下の出来事でコントロールができない。

いくら寝てもからだがやすまらないときもある。

やすむことは起きているときにできることだ。

からだをはっきりとした意識のもとにはたらかせることだ。

逆にやすめないこととはどういうことだろう。

それはなにものかに縛られてからだがこわばっていること状態だ。

なんどこの状態を終わらせようとしても自分の力ではどうにもならない。

からだだけやすめても縛られたものとのズレがおおきくなって負担がかかり、かえってやすむことからは遠ざかる。

 

なにかを整えているときわたしはやすむことができるのかもしれない。

しかもいま必要な整理をしているとき。

では必要な整理とはどのようなときにおこるのか。

たとえばなにかをおしまいにするときには整理することが必要となる。

お店をたたむとき、人と別れるとき、話を切り上げるとき。

いらないものを捨てたり、人にあげたり、ばらばらなものをひとつにまとめたり。

この運動をしていると、いまのわたしというものが浮きあがってくる。

これはいる、いらないというようなひとつひとつのものへの態度を選択することがそうさせてくれる。

そして最後はわたしのからだがぽつんと環境から切り離される。

しかし全てが簡単に断ち切れたり、切り上げられることだけではない。

そういうときにそれらをすこし誰かに預けたり、棚上げにすることができる。

わたしひとりが世界のなにともつながりを持たずたっていることはたぶん不可能だろう。

そういうときにすこしだけわたしではないだれかにわたしをすこし預けておくということができるようになれば、長い1日を終わらせてあげることができるかもしれない。