緑色のソファの三日間

大学に向かういつもの電車に乗っていた。

遅刻しそうなギリギリのいつもの特急電車。

僕は座ってそのとき夢中になっていたブルース・チャトウィンの「パタゴニア」を読んでいた。

殺伐とした旅の中で出会った強盗団の話かなんかが繰り広げられていた。

まったく普段と変わらないいつもの日常だったけど、すこしだけ、胸のあたりがすこしざわざわしていた。

大学最寄りの駅まであとすこしというところで、となりに女の人が座った。

僕よりすこし年上ぐらいの、すこし肉付きのいい、水色のノースリーブの女の人。

その人の腕が僕にふれた瞬間、ほんのすこしだった胸のあたりのざわざわが急に僕のからだからあふれそうなほどおおきくなった。

なんだかわからないそれにあっというまに僕はからだをのっとられてしまった。

僕がいまなぜここにいるのか、ここにいるひとたちはいったいなんなのか、そんなことをまったく突然忘れてしまって、ここにいることに耐えられなくなっていった。

なんとか逃げ出してしまいたい気持ちをおさえて、電車を降り、ふらふらと大学に向かった。

途中、何度も僕は立ち止まり、そこから動けなくなった。

その度にちいさく「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と何度もつぶやいて、前に進んだ。

学校についてまず友達を誘ってファミレスにいった。

よくしゃべる友達の話をたくさんきいた。

とにかくひとといないと、だれかのなにかでないと、消えてしまいそうだった。

そのあとも友達をつかまえていっしょに体力の限界まで体育館で卓球をした。

全身が痛かった。

これだけからだを感じても、僕自身はどこにいってしまったのか、まったくわからないままだった。

この日は、どうやって帰ったのか覚えていない。

家についてもなにも状態はかわらなかった。

そわそわして、とにかくからだから僕がでていってしまいそうだった。

僕はほんとうにこわいときはちいさいときから母に頼った。

話を聞いてもらって、話をしてもらった。

この日はたまたま母の帰りがおそく、僕は母が帰ってくるまでの間、家中をうろうろしたり、母の部屋からじっと窓の外を見ていた。

母が帰ってくると、僕はリビングの食卓に座った。

母は僕の様子がおかしいのを察して、向かいの椅子に座った。

僕は2Lのペットボトルの水を飲み続けながら、自分のことを話しつづけた。

次第に母が昔僕にそうしてくれたように、自分の過去を話しはじめてくれた。

僕はかわらず水をのみつづけ、空になるまで話を聞いた。

時間は深夜1時をすぎていた。

僕はようやくねむれるぐらいには落ち着いて、その日は自分の部屋には戻らず、リビングにある緑色のソファで電気をつけたままねむった。

 

翌朝、起きてきた父に不思議がられ、すこしワケを話した。

母は仕事に行き、父とふたりで昼食を食べながら、話をした。

父に思っていることを伝えることは、今までで二度目ぐらいだ。

怒られるんじゃないかというのと恥ずかしい気持ちで、いまの自分の状態を話した。

父は素直に受け止めて、冷静に病院を探してくれた。

いっしょに、数時間もかけて探した。

僕はその日、どうしても学校に行かなくてはならなくて、父に心配されながらしびれたからだで、なんとか向かった。

40分ほどの電車の中では何もできずにどこも見れずに、ただ座っていた。

いつもはひどくさむい車内のエアコンがちょうどよかったことに感謝したのをおぼえている。

学校ではみんなの発表を聞いて、帰りに友達の作品の搬入を手伝った。

この日もとにかくだれかといないといけなかった。

たまたま、僕の誕生日だったので大好きな場所に友達を連れて行って、昨日からのことをぜんぶ話した。

友達はただ相槌をうって、関係ないような話をしてくれた。

この日もどうやって帰ったのかおぼえていない。

すこし、安心していたような気がする。

帰ってまた水をのみながら母と話して緑のソファでねむった。

ちょうど視線の先に僕が描いた絵があった。

その夜はしばらく目を開けてじっとそれを見つめていた。

 

次の日は家の近い友達を誘って美術館にいった。

車を運転しながら、いまの状態の話とくだらない話を交互にした。

美術館には見たことのないような中ぐらいのおおきさのピカソの絵があった。

グレーの画面に黒い線が何本か走っているかわいらしい絵だった。

その絵を見ていたら昨日の夜の僕の絵をみていたときの気持ちを思い出した。

それを見ているのになにも見ていないような、この世界のことを考えていないような時間。

美術館にいる間は現実のつらくてしょうがなかった時間の外にいられた。

庭園のあるところだったので外に出てすこし歩いた。

また時間がうごきはじめてしまったけれど、からだのしびれはすこしやわらいでいた。

その日はそのまま友達が参加している展示に向かった。

ほとんど話したことのないひとたちがいる場だったけど僕はひとといなくてはならなかったので、ずっとそこにいて、みんなで帰った。

遠いところまできてしまっていたので、ひとりで帰るのは不安だったけど、いまより先のことがほんのすこしだけ感じ取れていたので、その感覚にすがるように集中して、ながい帰り道を過ごした。

帰るのがおそくなってしまったので、母も父もねていて、その日はそのままソファにねころんで、昨日よりじっと僕の描いた絵を見つめながらねむった。