だれでもないについて

医師の熊谷晋一郎さんのインタビュー記事や鷲田清一さんの臨床哲学にふれて、障害当事者による「当事者研究」に興味を持った。

当事者研究が始まった北海道浦河町にある「べてるの家」。

そこで行われていることの映像記録を見ていていちばん印象に残ったことばがある。

統合失調症を患っている女性の「時々、自分自身をやめたくなります。」ということば。

これは自殺願望でもなんでもなくこの方のなかには「自分」がいて、その自分に嫌気がさすということだろう。

自分自身をやめるということはどういうことか。

自分自身をやめたあとの自分とはいったいだれか。

このことばをきいたときのあたまの混乱をいがらしみきおさんの漫画「だれでもないところからの眺め」を読んでいるときに味わった。

 

この話の登場人物は次第に疑う余地もなかった自分をちいさなゆれによって失っていく。

自分を失いつつあるなかで主人公の男は「じぶん」じゃなくなったあとの「じぶん」はいったいだれなんだという疑問を抱く。

そして「じぶん」を失う直前に確実な死を予感する。

しかしその男はその後も生きつづける。

ただなにもしゃべらず薄ら笑いを浮かべてどこか知らないところへ旅立っていく。

その姿はとても幸福そうに見えた。

 

もうひとつ、この「自分自身でなくなる」ということを考えさせてくれたものがある。

ミヒャエル・エンデの「だれでもない庭」だ。

この話にでてくる「だれでもない国」の住人は記憶をもたない。なにもかも忘れて、つぎつぎと、ただいきることだけをしている。

幸せそうなものもいれば、不幸せそうなものもいる。

ただ、この国にいるものはとても充実しているようだった。

常にあふれ出す「いま」だけをいきていた。

それにこの国のものはつぎつぎと形をかえて、一定の状態というものが存在しなかった。

常に変わっていくもの、過去がないものに「自分自身」なんてものはあるのだろうか。

 

わたしはだれでもなくなることに恐怖する。

しかしそれはほんとうに怖がるようなことなのか。

写真をとっていると、わたしが見たものを記録してしまうことになる。

とりためるほどに、わたしができあがっていってしまうような気がする。

それは安心するとともに、なにかに閉じ込められているような感覚に陥る。

だれでもなくなることができたら、きっと見えているものがなにもかも変わってしまうのだろう。