知ることを取り戻す運動

昨日はCAMP10周年企画のひとつ「わたし|あなたに、あったこと|なかったこと」を聞いてきた。

トークイベントで、ゲストは飯山 由貴さんとBarbara Darlingさん。

おふたりの特徴としては、本来作家によって表現されたものが置かれるアートの展示空間にそれ未満であると通常みなされるリサーチワークそのものが作家自身の手を加えられたものと同等かそれ以上の価値や意味をもつかのように配置されていることだ。

美術作家にとってのリサーチワークとはいったいどんな価値をもつのか。

私たちは研究者でもないし学者でもない。

彼らほどの深い興味を持つわけでもないし長い時間をかけるわけでもない。

あくまで作家として調べる、知る、ということをする。

その「作家として」という立場はどのような意義によって保たれているのか。

 

私は手ざわりを感じること、がそれを保っているように思える。

インターネットの普及により(もっと具体的にいえば検索機能により)知るということばの意味が変わってしまった。

私はインターネットがない時代をほとんど知らないし、その時代を生きていた人がどういう感覚で物事を知っていたのか推測することしかできないが、少なくとも今よりはもっと実感のあることばだったはずだ。

インターネットでの検索で直接手に入る知識、またはその知識によって得られる二次的な情報、その手にするまでの異常な速さが「知る」ということの深度を変えてしまった。

あまりに急速に縮まる対象と私との距離は無関心や嫌悪感を生む。

本来知ることにはその情報に出会うまでに適切な道のりがあると思う。

その距離をてくてく歩いていくことをせずにはほんとうに知ることができるとは思えない。

このてくてく歩いていく道中で出会う些細な情報やどうでもいいものにふれていくことが知ることに欠かせない手続きだ。

それによって得た手ざわりが、知ることの深度、実感を持たせ、対象に近づき、やっとのことで情報にアクセスすることが可能になる。

そのアクセスする手段を確立することが美術作家としてリサーチワークを行うことの意義だと思う。

この仕事を「知ることを取り戻す運動」だとよんでいる。

 

飯山さんの仕事でいえば実際に現実空間を歩いて探すということによって対象に近づき、次第にアクセスする権限を獲得していっているように思える。

これはかなりあいまいに見えるし、合理的に見えない方法ではあるが、じっくりそれを見ていると、確信に近いものをもって彼女がそれを実践していることがわかる。

このような説明のつかない、抽象的な作業を確信をもって行えるというのが美術作家の特権であり、唯一残されたやるべきことになっている気がしている。

そんな仕事を鑑賞者に、社会にどう接続していくかが作家にとって大きな課題だが、安易にわかりやすいことばを使ったり、ビジュアル化することではなく、丁寧に作家自身がたどってきた道のりをそれぞれの手法で共有することで可能にするべきだと私は思う。