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ゆれるいえのイメージ

豊田市美術館で行われていた杉戸洋個展「こっぱとあまつぶ」をみた。

杉戸洋に偏見をいだいている人なんかがみたら一気にそれがふきとんでしまうようなすばらしい展示空間だったけど、それは目撃した人が知っていればいいことなので割愛して、杉戸さんが扱う「いえ」のようなモチーフに注目したい。

杉戸作品をみたことのある人ならぱっと頭に浮かぶあのよわよわしくたついえ。

絵画空間の中に数え切れないぐらい登場するこのいえ。

今回は建築家の青木淳さんとの共作で、そのいえのイメージが立体的な構造としてあらわれた。

展示された映像や状態をみて推察するに、そよ風にすらゆらいでしまうような構造。

展示空間内におかれたそれも実際にぎりぎり目視できるほどゆれているのがわかる。

こちらのからだのゆれか区別がつかないほどの微細なゆれ。

現実世界に登場したこの構造物はいままで描かれてきたものが単なるいえでないことをつよく主張するものだったように思う。

それはよわく、もろく、かるいものの記号であり、それがたまたまいえに似た構造だっただけというだけということが、くりかえし執拗に描かれることからもわかる。

ときに木のようなものに寄り添い、舟のようなものに浮かび、雪のようなものに埋もれる。

いくらかるく描かれていてもそれはそこにずっとじっと佇まなくてはいけないような宿命を負っているようにみえる。

杉戸さんは定住性という現代の習性に窮屈さを感じながらも、それと向き合い、たたかってきた人なのだと思う。

しかしたたかいというような抵抗であるだけではなく哀れみや愛着といった面も見て取れる。

 

私たちはどこかにいなくてはいけないけれど、それにはたえられないほどよわい存在になってきているように感じる。

それは居場所をふやすことかもしれないし、常に動き回ることかもしれないし、みんなでよりそいあっていきることかもしれない。

ときに絵画そのものより存在感をはなつ額、巨大な画面にちりばめられる微細な粒子、美術館のような立派な場所にはたえられないといわんばかりに寄り添い合う絵画、ゆれる半透明の構造物。

あそこでおこっていることを体験した人はみんな、たとえこっぱであっても、たっていられないようなよわいものでもそのままそこにいられるような方法のヒントをそっと持ち帰ったことだろう。