排他的であることを思い出すこと

「分かり合えないことを前提に他者を受け入れる」ことが若者のスローガンのようになっていっているように感じる。

この言葉は世界的なつながりが一般的になりつつもそれでも分かり合えない他者を受け入れるために自然発生し、僕らの生活のレベルまで浸透した。

しかし、この言葉のもたらす最終的な目的はだいぶズレてきている。

まず分かり合えないことを分かったフリをしてしまうことがあげられる。

すぐに理解できるはずもないことを安易に認めてしまったり、面白がったりしてしまっていないだろうか。

そもそも分かり合えないことをそのまま認めてそこで終わりなのだったら最初からコミュニケーションをとる意味がよくわからない。

僕たちはいつでも、分かり合えないけれどそれでも付き合っていって、なんとか見つけ出した互いの共通言語をきっかけにそれぞれが持つ知恵を交換して文化を発展させてきた。

いま現在、前述したスローガンのもとに行われているコミュニケーションは虚しいすれ違いにみえる。

それは世界的にも、僕たちの生活のレベルにも。

時代は変わってもコミュニケーションの本質は共通点の発見で、異物を飲み込むのはその後の話だ。

その後の飲み込む、吐き出すの選択のために、まずは一旦受け入れることが、本来の目的だったように思えてならない。